協同乳業物語自然の輝きに、おいしさそえて。
"乳の価値"を永遠に語り継ぐ

愛されるブランドには、長年育まれてきた物語があります。
食卓に健康なおいしさをお届けする協同乳業のブランドにも、
豊かな自然の恵みを損なわずありのままに伝えたいという
多くの人々の想いが、幾重にも重なり合い綴られています。
進化し続けながらも、真に価値のあるものは大切に守り通し、
今日まで黙々と語り継がれてきた協同乳業の物語。
その1つ1つに込められた想いをシリーズでお伝えします。

協同乳業物語 01

語り継がれる"共に支え合う喜び"

協同乳業株式会社の歴史は、農民の豊かな暮らしを願うヒューマニストと進取の精神に溢れる事業家の魂が出会い、
"酪農と乳業の共生"の理想を掲げるところから始まる。
自然の恵みを伝える生産者と健康を願う消費者の想いをつなぎ、愛され続けてきた協同乳業の源流を辿る。

"酪農と乳業の共生"という理想を目指して

1953(昭和28)年。日本は前年の冷害から戦後最大の米穀の凶作に悩まされた。出生地・長野県の農村復興を目指す社会運動家・吉田正は、農家の惨状を見舞う中で有畜農家のダメージが比較的小さいことに着目する。当時は学校給食の開始や食生活の欧米化に伴って乳製品への需要が増加し、酪農との兼業が安定した農家経営の助けになっていた。しかし、酪農事業は大手乳業会社の傘下に入った農家のみに独占され、農村の安定と発展には寄与していない。この時、吉田は"農民による農民のための新しい酪農事業"を立ち上げることを決意する。

その趣旨に強く賛同しながらも、地元の農業協同組合は新会社を設立できるほどの資本力を持たずにいた。悩む吉田を支えたのが、旧知の仲の名古屋精糖株式会社社長・横井広太郎だ。後に日本最大の製糖企業グループを一代で築く横井は、系列会社で製造するチョコレートの原料になる練乳の安定供給につながることから、新会社への出資を快諾する。

こうして1953(昭和28)年12月、理念的な支柱となる吉田を会長に横井を社長に据えて、"牛乳生産、加工事業経営、消費市場が同じ立場に立って力を合わせる"ことを創業理念に掲げる「協同乳業 」が発足する。実質の親会社となった「名古屋精糖」の名は「名糖」の略称で遺され、「メイトー」ブランドとして今なお多くの人々に親しまれている。

地域社会との強力な連携が捲き起こした
"協乳旋風"

最初の生産拠点となった長野県松本市の松筑農産加工連工場で練乳と生クリームの製造を開始したが、その処理能力は一日わずか800リットル程度の貧弱なものだった。しかし、創業直後に伊那乳業協同組合と関連乳業会社が合流し、"酪農と乳業の共生"の理念に共鳴した地元の酪農組織が続々と傘下に加わってくる。

1956(昭和31)年5月には下伊那郡酪農協連から「ぐんらく牛乳」の事業を継承し、市乳(飲用牛乳)の生産販売を開始した。創業3年後には長野県下の酪農家の大半が結集するまでになり、協同乳業は先行する乳業会社を凌ぐ生乳の収集基盤と生産能力を長野県下に確保する。信州の酪農家達の想いを込めて豊かな自然のおいしさを伝える「信州安曇野牛乳」の種は、この時に蒔かれたものとなる。

地域の乳業会社と支え合いながら事業を運営するスタイルは、全国の酪農家達を魅了した。信州の地盤を固めた協同乳業は、東京都の西多摩酪農協同組合の合流を契機に、"酪農と乳業の共生"の理念を共有できる地域の酪農組織や乳業会社との提携を進めていく。創業10年を経たずして"協同"乳業の理想は関東、東海、関西、東北へと拡がり、先行する大手乳業会社が"協乳旋風"と恐れるほどの躍進を遂げる。

世界を魅了した"進取の精神"

新しい酪農のあり方を目指して出発しただけに、新規事業への意欲は旺盛だ。アイデアマンの横井は海外から生産設備を取り寄せ、1955(昭和30)年3月に日本初のアイスクリームの生産を開始。後の大ヒット商品「ホームランバー」の礎となる。1957(昭和32)年5月には、東京酪農協同組合との合併を機に北多摩郡に新設した東京新工場で、業界に先駆けてテトラ牛乳の生産を開始する。

地域の酪農家達と連携して事業を協力し合うスタンスは、協同乳業にとって大きな福音となった。1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックの際には、会場の近場から鮮度の高い乳製品を確保できることから、選手村公式納入メーカーの1社に選ばれる。各社持ち回りで納入期間が定められる中で、協同乳業は乳業大手3社に先行するトップバッターとして、多摩地区の酪農家から集乳した新鮮な乳製品を納入した。選手達を感嘆させた産地直送のおいしさは、今なお「東京牛乳」で味わうことができる。

生産者に近い乳業会社の使命

協同乳業の道のりは、決して平坦だったわけではない。急速な事業の拡大は経営を圧迫し、吉田と横井は1963(昭和38)年5月に一線から退くことになる。その後、創業時から協力関係にある雪印乳業との資本提携を強化したが実らず、1965(昭和40)年には再び自力での再建策を探ることになった。

長い模索の果てに、協同乳業は"農民による農民のための新しい酪農事業"を目指した創業の原点に立ち還る。資本関係をJA全農、農林中金、各地域の農業協同組合が株を持ち合う形に整理し直し、販売業務では全農直販と提携して、生産者がつくった乳製品を量販店に直接販売するルートを確立した。

生産者に近い乳業会社のメリットは、自然の恵をありのままに伝えられることにある。"生産者と消費者を安心で結ぶ懸け橋"の役割性を再確認した協同乳業は、1972(昭和47)年に成分無調整の「農協牛乳」の受託生産を開始し、牛乳の本当のおいしさを生活者に再認識してもらうことができた。

1981(昭和56)年には正式に研究所を開設し、自然の力を活かして健康に働きかける乳製品や素材の開発研究を加速する。進取の精神を発揮して乳製品の新たな価値を見出す研究活動は、その後の「ビフィズス菌LKM512」などの画期的な新製品の開発へと結びつき、"共に支え合い、生きる喜びを共有する"自然の生命力と躍動感を、協同乳業のブランドに伝え続けている。

生産者と生活者の想いをつなぐ"協同"乳業

時を経て2010(平成22)年、協同乳業はサッポロホールディングス株式会社と資本・業務提携を締結し、2016年3月に同社の技術協力を得て業界初となる新殺菌製法を「農協牛乳」に採用した。理想を共有する人々と手を取り合い大切な価値を守り通してきた歴史を、社長・尾﨑玲(当時)は次のように振り返る。

「おいしい乳製品の基本は、良い生乳の確保にあります。その価値を最大限に引き出すために、互いに協力し合いながら技術力を高め、付加価値の高い商品をつくって販売し、酪農経営を安定させていくことが乳業会社の使命です。生産者と乳業会社と生活者が共に支え合う"協同"精神は、今も私たちの中に脈々と息づいています」

自然の恵みを大切にしながら、多くの人々と信頼を育み、共に支え合いながら成長していく-先人達が掲げた崇高な理念はこれからも損なわれることなく、協同乳業のブランドに語り継がれていく。

協同乳業株式会社 企業理念

<基本理念>

創業の精神を継承し、
会社を愛し支える人々と共に活動し発展する
自然の恵みを大切に、
健康で豊かな食文化の創造につとめる

協同乳業物語 バックナンバー

※記載内容は投稿当時のものです。